坂本城址碑

信長の命により、明智光秀が築城した「坂本城」。この名城も10年後には、本能寺の変ののち「山崎の合戦」で光秀が敗れ、坂本城も落城しました。
落城後、信長の重臣たちは尾張清洲城に集まり、信長の領地分割、いわゆる知行割りが行われ、近江の滋賀と高島の二郡をもつ丹羽長秀が坂本城の城主となり、羽柴秀吉は山城をもつこととなりました。その清洲の会議では、秀吉を坂本城主にという声が多かったが、秀吉は「坂本城をもてば、天下を取りたいという野心があると思われる」ので、丹羽長秀に渡したともいわれています。それは、坂本城は「今道越」という京都への交通の要所に立地していたからともいえます。
しかし、天正十一年(1583)4月、秀吉が越前北庄で柴田勝家を破ると、長秀は、越前・若狭と加賀半島を与えられ、坂本城は、秀吉の家臣、杉原家次が入りました。しかし、家次狂気の風聞が伝わり、先の知行割りで瀬田城を与えられた浅野長吉に変わりました。そして、天正十二年に山門復興の許可がおりてからは、坂本城も延暦寺の監視のための役割もなくなったことと、秀吉が大坂城を築いたため東海道や淀川の陸運水運を通じて北陸と大阪を結びつけるうえで「大津」の重要性が高まり、歴史的な役割を大津城に譲ることとなりました。
そして、坂本城廃城後、城跡は整備され田畑や住宅地となり、有名なお城でしたが、その位置や規模などは不明で、幻の城となってしまいました。
ただ、江戸時代からお城が東南寺というお寺付近にあったらしいと言われていました。実際、東南寺の少し北側には明智一族の墓と伝えられている明智塚が、今もねんごろに祀られています。また、琵琶湖の渇水時には、湖中に残る坂本城の石垣が現れ、当時の面影を時折、覗かせます。

住所 滋賀県大津市下阪本3丁目7
アクセス ■電車
JR大津駅からバス下阪本下車徒歩3分
■車
湖西道路下阪本ICから5分
問い合わせ先 坂本観光案内所 TEL:077-578-6565