音声で紹介する戦国の大津歴史舞台
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坂本城址公園

織田信長は、元亀二年(1571)9月12日、三万の兵をもって比叡山全山を焼き討ちしたのち、延暦寺の監視と山麓の滋賀郡一帯の支配を命じたのが、明智光秀です。その明智光秀が坂本城を築城しました。
元禄三年(1690)の記録では、元亀二年のところに「明智 坂本に城をかまえ、延暦寺の領土を知行する。山上の木まで切り取る」と記されているので、築城は元亀二年のうちにはじまっていたことになります。
また、京都・吉田社の神官、吉田兼見(よしだかねみ)の日記『兼見日記』によると、元亀四年6月に坂本城に訪れた時は「天主の下に立つ小座敷」で光秀に会っているところから、このころには完成していたようです。
このお城の特徴は、まず、城内に琵琶湖の水を引き入れた、いわゆる「水城形式」の城郭でした。光秀の茶の湯の師匠である大阪堺の津田宗及(つだそうぎゅう)が坂本城に招かれ、茶会を催した時に「茶会のあと、城内から御座船に乗って安土城に向かった」と記しています。
次に、高層の大天主と小天主がそびえる豪壮なお城でした。当時、イエズス会の宣教師として来日していたルイス・フロイスは「明智の築いた城は、豪壮華麗で信長の安土城に次ぐ、城である」と言っていました。坂本城は安土城より4年早く着工されていましたので、近世の城郭の先駆的な存在でもありました。
光秀は、坂本城を拠点として信長の命により近江平定に奔走していましたが「本能寺の変」のあとこの城は10年で落城いたしました。

名称
坂本城址公園 (サカモトジョウシコウエン)
所在地
〒520-0105 滋賀県大津市下阪本3丁目1
アクセス
京阪電車松ノ馬場駅から徒歩25分
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坂本城址碑

信長の命により、明智光秀が築城した「坂本城」。この名城も10年後には、本能寺の変ののち「山崎の合戦」で光秀が敗れ、坂本城も落城しました。
落城後、信長の重臣たちは尾張清洲城に集まり、信長の領地分割、いわゆる知行割りが行われ、近江の滋賀と高島の二郡をもつ丹羽長秀が坂本城の城主となり、羽柴秀吉は山城をもつこととなりました。その清洲の会議では、秀吉を坂本城主にという声が多かったが、秀吉は「坂本城をもてば、天下を取りたいという野心があると思われる」ので、丹羽長秀に渡したともいわれています。それは、坂本城は「今道越」という京都への交通の要所に立地していたからともいえます。
しかし、天正十一年(1583)4月、秀吉が越前北庄で柴田勝家を破ると、長秀は、越前・若狭と加賀半島を与えられ、坂本城は、秀吉の家臣、杉原家次が入りました。しかし、家次狂気の風聞が伝わり、先の知行割りで瀬田城を与えられた浅野長吉に変わりました。そして、天正十二年に山門復興の許可がおりてからは、坂本城も延暦寺の監視のための役割もなくなったことと、秀吉が大坂城を築いたため東海道や淀川の陸運水運を通じて北陸と大阪を結びつけるうえで「大津」の重要性が高まり、歴史的な役割を大津城に譲ることとなりました。
そして、坂本城廃城後、城跡は整備され田畑や住宅地となり、有名なお城でしたが、その位置や規模などは不明で、幻の城となってしまいました。
ただ、江戸時代からお城が東南寺というお寺付近にあったらしいと言われていました。実際、東南寺の少し北側には明智一族の墓と伝えられている明智塚が、今もねんごろに祀られています。また、琵琶湖の渇水時には、湖中に残る坂本城の石垣が現れ、当時の面影を時折、覗かせます。

名称
坂本城址碑 (サカモトジョウシヒ)
所在地
〒520-0105 滋賀県大津市下阪本3丁目7
アクセス
京阪電車松ノ馬場駅から徒歩20分
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日吉大社

比叡山の山麓、坂本に鎮座する日吉大社は、全国三千八百余の日枝、日吉神社の総本宮で、その歴史は古く、「古事記」上巻に『大山咋神(おおやまくいのかみ)、亦ノ名は山末之大主神(やますえのおおぬしのかみ)、此の神は、近淡海国(ちかつあわふみのくに)之日枝(ひえ)の山に坐し・・・』と記され、大山咋神は今も日吉大社の東本宮に祀られています。また、天智天皇が大津宮を造営されるころ、大和の三輪の神が祀られるようになり、こちらは今も、西本宮に祀られています。そして、最澄により比叡山が開かれると、日吉大社は延暦寺の護法神、守護神と位置づけられました。
元亀二年(1571)の信長の焼き討ちでは、日吉大社もすべてが焼き尽くされましたが、その再興については、祝部行丸(はふりべゆきまる)という日吉社の神職が尽力し、全国を回り日吉社再建への運動を起こしていきました。天正三年(1575)、行丸は再建に着手し、比叡山の再興と同じくして天台の僧たちの尽力のもと江戸時代には再興がほぼ完了いたしました。 日吉大社の建造物は、その焼き討ちにより、跡形もなく焼失してしまい、いずれの建物も桃山時代から江戸時代にかけて再建されたものばかりですが、以前の姿を彷彿させる重厚な建造物群です。 主な社殿は重要文化財に指定され、特に西本宮と東本宮の本殿は「日吉造」とも呼ばれいずれも国宝に指定されています。 他に、境内にかかる3つの石橋は重要文化財で、秀吉寄進と伝わる「日吉三橋」といわれ、西本宮までの参道には、山王鳥居という、独特の形をした鳥居があります。
少し離れて、坂本ケーブルの南側に建つ「日吉東照宮」は徳川家康を祀る社で、寛永十一年(1634)造営の典型的な権現造です。

名称
日吉大社 (ヒヨシタイシャ)
所在地
〒520-0113 滋賀県大津市坂本5丁目1-1
アクセス
JR湖西線比叡山坂本駅から徒歩20分、京阪電車坂本駅から徒歩10分
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西教寺

正式には「天台真盛宗総本山 戒光山 兼法勝西教寺」と言います。
推古天皇二十六年(618)聖徳太子が高麗の恩師のため創建されたと伝わります。その後、久しく荒廃していましたが、第十八代天台座主「慈恵大師良源」が復興し、念仏の道場としました。恵心僧都源信も修行され、文明十八年(1486)真盛上人が堂塔と教法を再興され不断念仏の道場とされ、現在は全国に約440の末寺を有する天台真盛宗の総本山となりました。
元亀二年(1571)、織田信長の比叡山焼き討ちでは、坂本の町家、日吉山王二十一社、山上の延暦寺堂塔一宇も残さず焼き払われ、僧侶や町人も老若男女区別なく約三千人が殺戮され、西教寺もすべて焼き尽くされました。
その後、坂本城の城主となった明智光秀は西教寺の不断念仏の鉦の音を聞き自分の心のわだかまりをなくそうと、何かあるごとに参詣していたので、元亀三年(1572)から天正二年(1574)にかけて西教寺の壇信徒と協力して仮本堂の建立を始め、同年3月には落慶の運びとなりました。その時、宇佐山城の陣屋を移築して庫裏も造営されましたが、その時、梁に使用されていた材木には「天正年中明智公所造古木」と刻銘が入っていて、今も西教寺に残っています。
そして、光秀からの寄進されたもので、梵鐘は坂本城の陣鐘で、平安時代の作で国の重要文化財に指定されています。そのほかに見どころとしては、総欅造りの本堂や伏見城の旧殿である客殿はいずれも国の重要文化財に指定されています。本堂の前には、明智光秀とその一族の墓や光秀の妻煕子の墓がひっそりと佇んでいます。

名称
西教寺 (サイキョウジ)
所在地
〒520-0113 滋賀県大津市坂本5丁目13-1
アクセス
JR湖西線比叡山坂本駅から江若バス5分、京阪電車坂本駅から徒歩25分
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東南寺

延暦年間、最澄が両親への報恩と追善供養のため建立したお寺で、比叡山の南東の方角、戸津が浜にあったので、東南寺といわれていました。 最澄は、「近江国の西部の民衆に法華経を分かり易く説教するため」ここで、説法を始めました。これが東南寺説法とも言われる「戸津説法」のはじまりです。
現在も、毎年8月21日から25日5日間、延暦寺の高僧による「戸津説法」が引き継がれ、伝教大師最澄に代わって、延暦寺の高僧が民衆のためわかりやすく説教するもので、天台座主の登竜門とも言われています。
このお堂は、寛永十五年(1638)、高島市今津町にあった一堂をこの地に移したので、別名今津堂とも言われていた。境内には、正面に本堂があり、南側に鐘楼があり、琵琶湖岸にも近く、ここは坂本城の二の丸跡だったといわれています。

名称
東南寺 (トウナンジ)
所在地
〒520-0105 滋賀県大津市下阪本3丁目6-14
アクセス
京阪電車松ノ馬場駅から徒歩20分
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酒井神社・両社神社

京阪電車松ノ馬場駅から湖西道路を越えて琵琶湖へ向かうと北国海道に当たる交差点は、両社の辻と呼ばれています。この辻の西側に、北に酒井神社、南に両社神社があります。酒井神社の御祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)、両社神社は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)の二柱が祀られています。
酒井神社は、創建は弘仁元年(810)下阪本にある梵音堂(ぼんのどう)にある大きな石から酒が涌きだし、その酒の精は大山咋神であったので、人々は社を建てて大きな石を御神体として祀ったのがはじまりでした。
両社神社は、元仁年間(1224~1225)高穴穂神社の御祭神を酒井神社の境内に勧請したことに始まります。
酒井陣社、両社神社ともに織田信長の比叡山焼き討ちによって焼失しましたが、天正三年(1575)に再建されました。現在の本殿は、元和六年(1620)に広島藩主、浅野長政の次男浅野長晟(ながあきら)によって建立されました。酒井神社、両社神社が浅野家の崇敬をうけたのは、当時の坂本城主浅野長政の長男として生まれた浅野幸長の産土神(うぶすながみ)となったためだといわれています。

名称
酒井神社・両社神社 (サカイジンジャ・リョウジャジンジャ)
所在地
〒520-0105 滋賀県大津市下阪本4丁目9-18
アクセス
京阪電車松ノ馬場駅から徒歩20分
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聖衆来迎寺

聖衆来迎寺(しょうじゅらいこうじ)は、天台宗中本山で、伝教大師最澄の創建と伝わっています。延暦九年(790)、最澄が自ら刻んだ地蔵菩薩を本尊として地蔵教院を建立し衆生済度の寺としたことがはじまりです。
そののち、長保三年(1001)比叡山の恵心僧都源信がこの寺に入り、念仏の道場としました。あるとき紫の雲の中に、阿弥陀如来の来迎を感得して、自ら筆を揮ってその様子を描き、御本尊としたので「紫雲山聖衆来迎寺」と改めたと伝わっています。
戦国時代、元亀元年(1570)9月、先の姉川の戦いで信長に敗れた浅井長政は、越前の朝倉義景と組んで京に上る途中、織田方に阻止されこの付近で戦いました。坂本の合戦です。この時、織田軍の大将が宇佐山城城主、森蘭丸の父、森可成(よしなり)で、浅井・朝倉軍は三万の兵、森軍は三千の兵で、勝利は目に見えたものでありました。そのとき比叡山も浅井・朝倉軍に加わったといわれ、これが信長の比叡山焼き討ちの一因になったとも言われています。この時48歳で戦死した宇佐山城城主、森可成をこの寺の住職であった真雄上人(しんゆうしょうにん)は浅井方ではあったが、可成の死を悼んでここで葬ったといわれています。
翌元亀二年、信長は三万の兵をもって、坂本の町家から日吉山王二十一社をはじめ、比叡山上までの堂塔伽藍をことごとく焼き払い、三千から四千人の僧や町人を殺戮しましたが、可成を弔ったこの寺だけは焼き討ちを免れたと伝えられています。境内には、その森可成の墓が今も残っています。

名称
聖衆来迎寺 (ショウジュライコウジ)
所在地
〒520-0104 滋賀県大津市比叡辻2丁目4-17
アクセス
JR湖西線比叡山坂本駅から徒歩15分
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盛安寺

周囲の美しい穴太衆積みの石垣に囲まれ、一際目立つ太鼓櫓には、天正年間、敵の急襲を知らせた恩賞として、光秀から庄田八石を賜ったと伝わる「明智の陣太鼓」がかかっています。山門をくぐると境内には本堂、客殿、そして六体地蔵尊の横には明智光秀公の供養塔があります。
社伝によりますと、越前朝倉氏の家臣、杉若盛安(すぎわかもりやす)が天文年間(1532~1555)に再建したと言われています。
坂本城主、明智光秀の祈願所となっていたこともあり、「明智寺」とも言われていました。天正年間には、明智光秀はもちろん豊臣秀吉が相次いでこの寺に天下泰平、玉体安穏の祈念を行ったこともありましたが、元亀年間の兵火で焼失したと伝わっています。
現在は、坂本にある天台真盛宗総本山の西教寺の末寺のひとつとなっています。ここは、穴太(あのう)の里、高穴穂宮跡のあるとこで、天智天皇の勅願寺「崇福寺」(すうふくじ)伝来の、国の重要文化財に指定されている十一面観音菩薩が安置され、一般には5月、6月、10月の毎土曜日と正月三が日は特別公開があります。
また、重要文化財の客殿は桃山御殿の遺材と言われ、内部の襖や壁には長谷川派の作とされる四季の草花や鳥、上座の間には漢の文帝「露台惜費」(ろだいせきひ)の故事が鮮やかに描かれています。

名称
盛安寺 (セイアンジ)
所在地
〒520-0113 滋賀県大津市坂本1丁目17-1
アクセス
京阪電車穴太駅から徒歩10分
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生源寺の破鐘

生源寺は、比叡山延暦寺を開いた伝教大師が生まれたところで、のちに寺が建てられ、生源寺と名付けられました。
伝教大師は、神護慶雲元年(767)8月18日、父、三津首百枝(みつのおびとももえ)と母、藤原藤子妃のもとに誕生されました。その時の産湯を汲まれたのが、生源寺の井戸であるといわれています。山門を入ると右手に「伝教大師御産湯井」の石碑があります。また、ここは延暦寺の西塔の総里坊格のお寺でもありました。
元亀二年(1571)の9月12日の早朝、信長の三万の軍勢が押し寄せるのを、日吉大社の朝参りの帰りに発見した老人が、坂本の人々に急を告げるため、生源寺の釣鐘を力の限り乱打し、異変を伝えました。あまりに強く打ち鳴らしたため、ひびが入り不思議な音色になったといわれます。
現在この破鐘は、JR湖西線 比叡山坂本駅前の広場に移されています。

名称
生源寺の破鐘 (ショウゲンジノワレガネ)
所在地
〒520-0113 滋賀県大津市坂本6丁目1-17
アクセス
JR湖西線比叡山坂本駅 駅前広場
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日吉参道・穴太衆積みの石垣

京阪電車坂本駅から西へ進むと生源寺の前に石の鳥居が見えます。そこから日吉大社まで続く日吉参道は日吉馬場ともいわれ、坂本のメインストリートです。
桜の馬場と言われ、桜並木が続き、桜や紅葉の頃は美しいところです。湖国三大祭のひとつ山王祭の花渡りなどの舞台となります。
また近くには秀吉ゆかりの太閤桜のある薬樹院をはじめ、参道の両脇には延暦寺の老僧の隠居所であった『里坊』が続き、その石垣は、穴太衆積みの石垣と呼ばれ、坂本地区が重要伝統的建造物群保存地区に指定されている特徴的な景観でもあります。
ちなみに、元亀二年(1571)の比叡山焼き討ちによって、信長は穴太衆積みの石垣の存在を知ったといわれ、坂本城をはじめ、天正四年(1576)着工の天下布武の「安土城」の築城には、穴太衆を動員したと言われています。
「穴太衆」は古墳時代後期、渡来人がつくったといわれる琵琶湖西部に残る横穴式古墳の古墳群の石室が「穴太衆積み」の工法に酷似しているところから、その子孫が大津市の「穴太」に残り、長らく特有の石積み工法の技術を温存し続け、戦国時代の幕開けと同時に、脚光を浴びたといわれています。
安土城の城郭に使われて以来、石工集団「穴太衆」の名は一躍有名となり、信長、秀吉そして家康と戦国時代の名だたる武将に受け継がれ、天下の名城にはことごとく「穴太衆積み」が採用されました。

名称
日吉参道・穴太衆積みの石垣 (ヒヨシサンドウ・アノウシュウヅミノイシガキ)
所在地
〒520-0113 滋賀県大津市坂本
アクセス
JR湖西線比叡山坂本駅から徒歩15分、京阪電車坂本駅から徒歩3分
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滋賀院門跡

滋賀院門跡は、比叡山焼き討ちのあと、その復興に力を注いだ徳川家康、秀忠、家光の三代の将軍に仕え、黒衣の宰相と言われた慈眼(じげん)大師南光坊天海大僧正が、元和元年(1615)後陽成天皇から京都の法勝寺を賜り建立され、明暦元年(1655)後水尾天皇から「滋賀院」の号を賜った門跡寺院です。
外観は、坂本の中でも見事な穴太衆積みの石垣の上に白壁がめぐらされ、地元では滋賀院御殿とも呼ばれています。
徳川時代末までは法親王(ほっしんのう)が住持し、天台座主の学問所でもありましたが、現在は、天台座主の対面所でもあり、延暦寺の本坊として、また宝物などが陳列され、江戸時代初期の国指定名勝の庭園とともに拝観ができます。
この庭園は、小堀遠州の作といわれ、国の名勝に指定されています。三代将軍家光公の命により、南北に細長く、池泉観賞式に作られています。特徴としては、宸殿(しんでん)の西側につくられた広い庭は、縁側からゆっくりと観賞することができます。縁先の下は、すぐに池になっていて、南北約24m、東西約5mの細長いかたちをしています。中央には立派な石橋がかけられています。石橋を対岸に渡ったところが滝口になっていて、その石組の手法は古い形式といわれています。
また、滋賀院を出て裏道を上ると、慈眼堂というお堂があります。天海大僧正を祀る廟所であり、歴代天台座主のお墓はじめ、新田義貞や紫式部、清少納言の供養塔もあります。

名称
滋賀院門跡 (シガインモンゼキ)
所在地
〒520-0113 滋賀県大津市坂本4丁目6-1
アクセス
JR湖西線比叡山坂本駅から徒歩15分、京阪電車坂本駅から徒歩5分
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明智塚

東南寺の北東約250m、国道161号の西側に村田製材所の事務所横に木造の鳥居と2つの石灯籠を有する小さな塚が明智塚です。
ここは、古い小字名を「城」といいました。明智光秀が築いた坂本城の城内と推定されるところです。
この塚の由来については、いろいろな伝承が残っています。たとえば、光秀が坂本城築城に際して、本家の美濃守護土岐氏から伝領した宝刀を城の主柱の下に埋めた跡である、とか、光秀秘蔵の愛刀「郷義弘」(ごうのよしひろ)の脇差を落城に際して娘婿の左馬之介秀満が埋めたところである、とか、また、左馬之介秀満の首を埋めたもの、とか、明智一族の墓所であるとか、いろいろな節がいわれています。
光秀は、「本能寺の変」で信長・信忠親子を討ちましたが、13日には「山崎の合戦」で羽柴秀吉に敗れ、坂本へ逃げる途中、京都の小栗栖で土民に殺されたといわれています。
それを知った光秀の娘婿、明智左馬之介秀満は安土城から坂本城に入りましたが、すでに秀吉軍は大津を押さえ、坂本城を完全に包囲しました。秀満は、光秀の妻や娘と自らの妻を手にかけ、天主に運び込んだ火薬に火を付け、絶賛を浴びた坂本城と運命をともにしました。
この塚は明智一族の悲運もあってか、さわるとたたりがあると言われ、壊されることもなく現在に至っています。毎年、光秀の命日の翌日、坂本城落日の6月15日に、所有されている方の手でねんごろな法要が行われています。

名称
明智塚 (アケチヅカ)
所在地
〒520-0105 滋賀県大津市下阪本3丁目5-35
アクセス
京阪電車松ノ馬場駅から徒歩25分
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旧竹林院

旧竹林院は、比叡山延暦寺のかつての里坊で、竹林院といいました。里坊とは、延暦寺山上の三塔十六谷といわれた山の坊「山坊」に対して、麓の坊ということで「里坊」と称されています。
里坊ができたのは、近世になってからで、現在のような里坊は、比叡山の上で修行していた老僧が、天台座主から里坊を賜って居住したのが始まりとされています。このため、山上の坊とは異なり、余生を送る生活が中心であったため、生活としての工夫から庭園がつくられたものといわれています。
竹林院は天正二十年(1592)の創立と伝えられています。延暦寺の中でも格式の高い寺院であったといわれ、豊臣秀吉や徳川家康も、たびたび竹林院を訪れ、茶の湯を楽しんだといわれています。
庭園の特徴は、八王子山を借景に地形を巧みに利用しながら、滝組と築山を配しています。大宮川の清流が園内をかけめぐり、たっぷり植えられた木々、手入れの行き届いた苔が四季折々、しっとりした風情を醸し出しています。
庭園内にある二棟の茶室と四阿(あずまや)が巧みに配され一連で使用することによって茶事ができるように工夫されています。中でも入母屋造り茅葺きの茶室は、「天の川茶席」と呼ばれる珍しい間取りで、2つの出入り口を設け、主人の両脇に客人が並びます。この様式は、全国でも武者小路千家東京道場以外に例はありません。

名称
旧竹林院 (キュウチクリンイン)
所在地
〒520-0113 滋賀県大津市坂本5丁目2-13
アクセス
JR湖西線比叡山坂本駅から徒歩20分、京阪電車坂本駅から徒歩10分
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