音声で紹介する戦国の大津歴史舞台
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比叡山延暦寺・焼き討ちと復興

千二百年前、最澄は比叡山に登り、草案を結び「一乗止観院」と名付け、自作の薬師如来を安置しました。延暦7年(788)には、法華十講を開き、日本仏教の母なる山としてその歴史は始まりました。平成六年に、その歴史と有する文化財、それを育む環境などが世界文化遺産に登録されたところでもあります。
さて、その延暦寺の歴史の中での一大事件はやはり信長の比叡山焼き討ちです。信長は以前から、比叡山を味方にしたかったのですが、朝倉氏と親交が深かったことと、天下統一の野望を阻止しようとする浅井・朝倉両氏が比叡山に避難していたことから、元亀二年(1571)9月12日、山麓の坂本から信長の三万の兵が、山王二十一社、西教寺、八王子山、そして比叡山の四千五百もの堂塔伽藍を焼き払い、僧侶、学僧、子供は見つけ次第首を刎(は)ね、ことごとく殺戮を続け、その犠牲者三千から四千人にものぼったと伝わります。
荒廃した比叡山の復興が始まったのは天正十年(1582)で、焼き討ちを免れた、施薬院全宗(やくいんぜんそう)と観音寺詮舜(かんのんじせんしゅん)ら31人の僧たちでした。彼らは『比叡山再興勧進帳』を作り、各地から寄付を募り、羽柴秀吉に再興の許可を依頼した結果、天正十二年には京の都の鬼門守護と国家鎮護のための寺院として再興の許可が下り、銭一万貫が寄付されました。
徳川家康や伊達政宗も復興の協力に加わり、根本中堂から再建が始まり、文禄4年(1595)豊臣秀吉は、弟の秀次が三井寺と通じているという理由で突然、三井寺の廃絶を命じ、三井寺の堂宇を復興名目で移築したと言われています。
現在の西塔の釈迦堂は、その時の三井寺の総本堂である金堂でした。

名称
比叡山延暦寺・焼き討ちと復興 (ヒエイザンエンリャクジ・ヤキウチトフッコウ)
所在地
〒520-0113 滋賀県大津市坂本本町4220
アクセス
京阪電車坂本駅から徒歩20分坂本ケーブル乗換徒歩10分
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宇佐山城跡

宇佐山城は、元亀元年(1570)織田信長の家臣の森三左右衛門可成(もりさんざえもんよしなり)が近江国志賀の地に築いて守護した山城です。 可成は、京都と大津を結ぶ二大幹線である「今道越」と「逢坂越」を封鎖してその間に宇佐山城を築き、城の麓に直結する新しい道を開いてそこを旅人に往来させたのでした。
元亀元年4月、織田信長は三万の兵を率いて、越前の朝倉義景を攻めましたが、同盟者であったはずの浅井長政の離反によって失敗しました。信長は京都へ退却したのち、居城であった岐阜へ帰って体勢を立て直すこととしました。
そこで、5月には、宇佐山城には森可成、野洲の永原城には佐久間信盛、近江八幡の長光寺城には柴田勝家、安土城には中川清秀と近江南部の要所には名だたる部将を配して、浅井・朝倉軍の南下に対する守りを固めたうえ。岐阜へ帰りました。
そして1ヶ月のち、浅井長政の居城である小谷城に近い姉川で、浅井・朝倉連合軍を破り大きな打撃をあたえましたが、北上する余裕はなかったようです。
そうしているうち、7月には阿波から三好三人衆が摂津に侵攻してきて、不穏な形成となったので、信長は8月に摂津に出陣しましたが、浅井・朝倉の大軍は、その隙をついて琵琶湖の西側を南下し坂本まで侵攻してきました。
9月16日、坂本に陣取った浅井・朝倉連合軍に対して可成は、その南下を阻むため、宇佐山城を降りて、坂本の町外れで戦いました。手勢わすが六百余り、三万の大軍の前ではひとたまりもありませんでした。9月20日、可成はついに討ち死にを遂げました。合戦のあったといわれる比叡辻の聖衆来迎寺(しょうじゅらいこうじ)の真雄上人は、可成の遺骸を夜陰に紛れて寺に運び入れ手厚く葬ったといわれ、寺には今も可成の墓が残っています。

名称
宇佐山城跡 (ウサヤマジョウアト)
所在地
〒520-0027 滋賀県大津市錦織
アクセス
京阪電車近江神宮前駅から徒歩40分
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