音声で紹介する戦国の大津歴史舞台
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大津城跡碑

豊臣秀吉は、近江国の情勢が安定し、比叡山を保護するようになり、また大坂城を拠点にしたので、軍事面で、また北国からの物資の流通の中継地としての「大津」の重要性が高まったことから、再建した坂本城を廃城して、大津へ城を移しました。
京都吉田社の神官、吉田兼見(かねみ)の日記「兼見日記」によると天正十四年(1586)2月に秀吉は、大津に頻繁に下向していたと記されているので、このあたりだと推測されます。
初代城主は、坂本城の第4代目の浅野長吉がそのまま就任しました。長吉は交通の要所である大津には船が少なかったので、もろもろの浦から船を集めさせ「大津百艘船」(おおつひゃくそうせん)という船持仲間ができました。この大津百艘船にはすべての課役を免除し、大津の浦から出る荷物や旅人はほかの浦の船に乗せないという特権を認める制札を発行しました。これが、大津の浦が物資の集散地として基盤を築くことになりました。浅野長吉のあとの城主、増田長盛そして新庄直頼も大津百艘船の制札を発行しています。
直頼が摂津の高槻城に移ったあと、城主となったのが近江佐々木の血を受け継ぐ京極高次でした。高次も歴代城主と同様、大津百艘船の制札の発行を出しています。
高次は、妹松の丸が秀吉の側室になっていたことから、秀吉配下の武将となりましたが、大津城攻防戦では東軍方として籠城し、西軍を大津に足止めしたことは有名です。
関ヶ原合戦のあと、徳川家康は、大津城主に徳川家譜代の戸田一西(とだかずあき)を据えましたが、9ヶ月のちに大津城を廃城し、新たに膳所(ぜぜ)が崎に、膳所城を築きました。
廃城の際、大津城は落城はしていなかったということから、天守閣は、井伊家の彦根城の天守閣として今も残っています。

名称
大津城跡碑 (オオツジョウアトヒ)
所在地
〒520-0047 滋賀県大津市浜大津5丁目
アクセス
京阪電車浜大津駅すぐ
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大津城籠城【1】

大津城の攻防は、戦国時代の終わりを告げる「関ヶ原の合戦」の前哨戦でした。秀吉が慶長三年(1598)、伏見城で死去すると、五大老の一人、徳川家康が台頭してきました。その翌年、秀吉の後継者秀頼を補佐していた前田利家が病死すると、勢力の均衡が一挙にくずれていきました。
そこで、家康は、前田利家の子、加賀の前田利長や丹後の細川忠興を押さえ、会津の上杉景勝の征伐を企てました。この動きに石田三成の呼びかけで、五大老の毛利輝元、宇喜多秀家をはじめとする旧豊臣方の恩顧の諸大名が大坂城に集結しました。
家康はこの動きに対し、慶長四年6月18日、大津城の京極高次と会い密談を交わしていたと言われています。家康が上杉討伐のため、会津に出発すると西軍は伏見城に総攻撃を駆けて10日目に陥落させて、大津へと兵を進めました。
京極高次は、豊臣方の恩顧の大名であり、妻の「お初」は、秀吉の側室「淀殿」の妹であり、高次の妹(姉とも言われます)「松の丸」も秀吉の側室でありました。一方、妻「お初」の妹は、徳川家康の次男、二代将軍「徳川秀忠」の妻となっていましたので、西軍につくのか、東軍につくのか苦しい立場でありました。ただ、高次は、すでに家康から、大津城の修繕費として白銀三十貫文を受けるなどすでに深い関係でした。
高次は、とりあえず西軍に応じて、加賀の前田征伐に従いましたが、兵千人を大津城に残して、二千の兵を率いて出発しましたが、一向に進まず、20日目でやっと余呉に着きました。この動きに西軍が疑問を持ち出すと、急転し、海津から船で、9月3日に大津城へ帰還しました。この時、高次は籠城を決心していたと考えられます。

名称
大津城籠城【1】 (オオツジョウロウジョウ【1】)
所在地
〒520-0047 滋賀県大津市浜大津5丁目
アクセス
京阪電車浜大津駅すぐ
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大津城籠城【2】

大津籠城は慶長五年(1600)9月4日から始まり、家臣の妻子をよんで兵糧米の確保や、塩や味噌、醤油も城内の蔵に入れ、防御を堅固にするため城のまわりを14時間もかけて焼き払いました。
この籠城に対して、西軍、立花宗茂と毛利軍の率いる一万五千の大軍は大津城を包囲し、大津城が非常に見やすい、城の南西にある長等山(ながらさん)の山腹に陣をはりました。西軍の総攻撃は9月6日からはじまり、城外の前線陣地は全滅となりましたが、城内の守りは堅く、一進一退の攻防が続きました。そこで西軍は、長等山に大砲を据えて、城内に向かって砲撃を開始いたしました。この攻撃ぶりを京の町衆も手弁当をもって見物にきていたといわれています。城内はこの攻撃にも開門の様子なく、6日目を迎えましたが、西軍の外堀を埋める戦略により、より激しい攻撃が行われ、9月14日、秀吉と親しかった高野山の僧、木喰応其(もくじきおうご)と新庄直忠が本丸に入り、和睦開城を申し入れました。
当然、高次はこれを拒否しましたが、家臣の強い諫言(かんげん)によってついに、開城することとなり、11日間の大津籠城はおわり、9月15日早朝、高次は兵士、老人、女子供およそ二、三百人を引き連れて高野山を目指しました。高次が高野山を目指した、ちょうどその日の朝から、天下分け目の合戦「関ヶ原の合戦」の幕が切っておとされましたが、大津籠城で足止めされた大軍が、この合戦に間に合っていたとしたら、歴史が塗り代わっていたかもしれません。

名称
大津城籠城【2】 (オオツジョウロウジョウ【2】)
所在地
〒520-0047 滋賀県大津市浜大津5丁目
アクセス
京阪電車浜大津駅すぐ
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大津別院

真宗大谷派の別格寺院で、元亀元年(1570)から天正八年(1580)の織田信長との石山合戦で、父顕如(けんにょ)とともに戦い、信長に徹底抗戦したことで有名な本願寺の教如(きょうにょ)によって創建されました。
文禄元年(1592)、教如は、父顕如の死後、跡を継ぎましたが、顕如の遺書が発見されたとして、豊臣秀吉の命により、教如は引退させられ、三男の准如が跡を継ぎ、本願寺の東西分派の契機となりました。
慶長五年(1600)、関ヶ原の合戦で西軍を破った徳川家康は、本丸だけが残った大津城に入り、京都からの公家たちの挨拶が絶えず7日間も大津に滞在していました。
また、その背景には、家康と教如と大津の有力な米商人との深いかかわりが見られ、慶長五年の大津別院創建についても、教如は早くから親交を深め、家康が上杉征伐の際も、わざわざあとを追って下野国で会見しているほどです。そして、9月20日には大津城へ入る家康を迎えています。 教如には当時、大津を代表する豪商たちで構成されていた直参門徒(じきさんもんと)という協力的な支援者が多かったので、家康も豊臣色の強い大坂や京都よりも大津を選んでいたようです。

名称
大津別院 (オオツベツイン)
所在地
〒520-0043 滋賀県大津市中央2丁目5-25
アクセス
JR琵琶湖線大津駅から徒歩10分
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明智左馬之介湖水渡りの碑

天正十年(1582)6月2日、明智光秀は、織田信長を京都本能寺に討ちましたが、13日、山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れ、逃げる途中、京都山科の小栗栖の藪で、土民に囲まれ、敢え無い最期を遂げたと言われています。
その深夜、光秀の悲報を受けとった光秀の娘婿、明智秀満は占拠していた安土城から、翌日早朝、坂本城へ陸路で出陣しました。秀満は、途中瀬田唐橋を守る織田方の武将山岡氏に進路を阻まれますが、それを振り切って、大津へ向かいました。
大津を守っていたのは、秀吉軍の先鋒、勇猛でならす堀秀政でした。その軍に真っ向から対決を挑んだ秀満軍は、多くの手勢を失い、窮地にたたされましたが、秀満は、なんとも大胆に打出浜から馬を琵琶湖に乗り入れました。これが後世に名をはせる「明智左馬之介の湖水渡り」です。
そして、なんとか唐崎に上陸した秀満は、めでたく坂本城にたどり着きましたが、堀秀政の軍は6月15日、坂本城を攻めて、激戦のすえ、あの秀麗な天主のあった坂本城は落城しました。秀満は、自分の妻を刺し殺し、腹を十字にかっさばいて、火薬に火を付け、天主もろとも吹っ飛んでいきました。
その壮絶な最期も、江戸時代初期の『川角太閤記』に劇的に書かれています。

名称
明智左馬之介湖水渡りの碑 (アケチサマノスケコスイワタリノヒ)
所在地
〒520-0806 滋賀県大津市打出浜15-15
アクセス
京阪電車島の関駅または石場駅から徒歩5分
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三井寺

三井寺は、天台寺門宗の総本山で、歴史は古く、千三百年前、大友皇子の子、大友村主与多王(おおとものすぐりよたおう)によって建立されたと言われ、天武天皇から「園城」(おんじょう)という勅額を賜ったと伝わることから、「長等山園城寺」(ながらさんおんじょうじ)と称したことがはじまりで、俗に「三井寺」と呼ばれるのは、天智・天武・持統天皇の産湯に用いられた霊泉の湧く井戸から「御井の寺」(みいのてら)と呼ばれ、また、のち智証大師が厳儀(げんぎ)である三部潅頂(さんぶかんじょう)の法水にその霊泉がつかわれたことに由来します。
さて、戦国の世、文禄四年(1595)、豊臣秀吉は突如、三井寺の闕所(けっしょ)つまり廃絶を申しつけ、ほとんどの堂舎を破却しましたが、三井寺復興を許す遺命を残して亡くなりましたので、慶長三年(1598)、これを承けた北政所(きたのまんどころ)によって寺領も回復され、園城寺長吏、道澄の努力によりまして堂塔伽藍も復興されるようになりました。
この慶長年間の伽藍復興は、豊臣家を中心に徳川家康や毛利輝元などの大名の支援によって行われ、智証大師を祀る唐院にはじまり、国宝金堂は北政所の寄進によりまして早くも慶長四年に完成しました。
翌年には毛利輝元が一切経とそれを納める経蔵を、また徳川家康は伏見城内から楼門と三重塔を移築寄進し、さらに後水尾天皇が長日護摩堂(ちょうにちごまどう)の不動明王像を寄進されるなどこの時の復興は、実に目をみはるものがありました。
そして、日本を代表する書院造として世界的にも有名な光浄院と勧学院のふたつの国宝客殿や「音の三井寺」として日本三名鐘のひとつに数えられる『三井の晩鐘』も鐘楼とともにこの期に再建されたものです。

名称
三井寺 (ミイデラ)
所在地
〒520-0036 滋賀県大津市園城寺町246
アクセス
JR湖西線大津京駅から徒歩20分、京阪電車三井寺駅から徒歩10分
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大津祭曳山展示館・大津城外堀跡

大津祭は、長浜曳山祭や日吉山王祭とともに湖国の三大まつりのひとつに数えられ、滋賀県の無形民族文化財に指定されている曳山祭です。
祭礼は、体育の日の前々日が宵宮、その翌日が本祭で曳山巡行があります。宵宮は、13基ある曳山が各町で夕刻が提灯などの宵宮飾りで展示され、宵宮囃子を聞きながらそぞろ歩きで楽しんでもらえます。また、本祭の曳山巡行では、西行桜狸山を先頭に、13基の曳山が朝から夕方まで、コンコンチキチンの囃子と見事なカラクリを演じながら市内を巡行します。
この大津祭曳山展示館は、大津祭を年中通して大津祭に親しんでいただけるテーマ館でもあります。館内には実物大の曳山模型と祭の様子を映像などで紹介しています。
大津祭カラクリや見送り幕に見られる懸装品などの曳山の製作については、曳山町の町衆の心意気と湖上交通の要所としての港町と東海道53番目の宿場町という2つの機能を備えた町の当時の経済力と高い文化性を伺うことができます。
また展示館の裏手には、幅7mあったと思われる大津城の外堀跡の石垣の一部が見えます。

名称
大津祭曳山展示館・大津城外堀跡(オオツヒキヤマテンジカン・オオツジョウソトボリアト)
所在地
〒520-0043 滋賀県大津市中央1丁目2-27
アクセス
JR琵琶湖線大津駅から徒歩10分
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