

慶長五年(1600)、天下分け目の戦いといわれる関ヶ原の合戦で勝利をおさめた徳川家康。
その翌年、膳所崎の地に築かせたのが膳所城である。旧膳所藩士・平田好が記した「懐郷坐談」の築城にまつわるエピソードから、膳所崎が選ばれた理由が読みとれる。
当時、関ヶ原の合戦後の守備として逢坂関を復旧するか、はたまた大津城を再興するか、家康は信頼の厚かった近臣・本多正信に相談したという。大津城跡は背後の山から俯瞰されやすく、関ヶ原の合戦直前の籠城戦でも守りのもろさを見せたこともあり、候補から外された。
また、瀬田では湖上の舟運を押さえることに無理があったため、城地として地勢を判断した結果、最終的に決定されたのが膳所崎だった。ちなみに膳所城は、天下を治めた家康が最初に造った城として知られている。
城は寛文二年(1662)の大地震によって大きく変貌、本丸と二の丸をつないで本丸に、三の丸を二の丸にするなど、大改築が行われた。琵琶湖に突き出した城郭で、湖水面からの城の眺めは絶景でその美しい景観は「瀬田の唐橋唐金擬宝珠、水に映るは膳所の城」と唄われたという。
宝永四年(1707)にも地震に見舞われることになるがそれ以後、大きな破損はなく幕末に至っている。しかし、明治維新を迎えると、最後の藩主である本多康穣が廃城願いを新政府に提出、二百七十年余り続いた城の歴史は幕を閉じることになった。
その後、城門や櫓などは膳所神社や篠津神社(ともに重要文化財)をはじめ各地に移築され、現在も当時の姿をとどめている。膳所城の築城には八人の奉行が当たり、築城計画は縄張の名手である伊予国(愛媛県)今治城主:藤堂高虎が担当したとされる。
高虎の築城は、高く積み上げた石垣や堀の設計などに特徴があり、膳所城以外にも、伏見城、江戸城、二条城など、数々の築城を手掛けている。
膳所城の城門が移築された膳所神社
膳所城跡は公園に姿を変えた。本丸跡に位置する。

慶長五年(1600)関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康は、早速翌年、膳所城を築かせました。この城は天下分け目の合戦後、最初に作られた城で、築城には8人の奉行が当たりました。縄張りは有名な藤堂高虎が担当しました。
築城に際しての興味深い話として、関ヶ原の合戦のあとの守備として、逢坂の関を復旧するか、大津城を再興するかという家康の相談に、信任の厚かった本多佐渡守正信は、その策には賛同できないといって、瀬田の山岡景隆(かげたか)の城跡と大江の窪江城跡、そして膳所崎(ぜぜがさき)の3ヶ所に幟(のぼり)をたて、城地としての地勢を判断した結果、膳所崎が最適であると提案しました。
大津城は大津籠城の際、守りのもろさを露呈しました。瀬田の地では東海道を押さえても、湖上水運を押さえられないことから、膳所の地に決まったということです。
膳所城は、東海道の名勝として、屏風や図絵にも描かれ、街道を行き来する旅人は、「瀬田の唐橋 唐金擬宝珠(からかねぎぼし) 水に映るは膳所の城」と唄われるほどでの雄姿でもありました。

社伝によりますと、天智天皇の大津京選都のとき、膳所の地が御厨(みくリや)の地と定められ、天武天皇の代に大和国から食物の神を移して祀ったのが膳所神社の始まりとされていますが、確かな資料は、平安時代、この一帯が天皇の食事としての湖の魚介類を献上する場所に指定されたことによると言われています。御祭神は、食物をつかさどる豊受比売命(とようけひめのみこと)です。
江戸時代、膳所藩の領地になると、本多家歴代藩主に信仰され、神社の領地や社殿の寄進がたびたびありました。
なお、正面に建っている薬医門は、もともと膳所城の城門を移築したもので、重要文化財に指定されています。北門や南門も膳所城の門ですが、南門は近年建て替えられました。

御祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)です。創始年代はわかりませんが、篠津神社にある康正(こうしょう)二年(1456)銘の棟札から、室町時代の中頃には鎮座していたことがわかり、地元の氏神として信仰を集めています。古くは、天王社、天王宮、のちに牛頭天王社と言われていました。
江戸時代に入って、膳所藩主本多家の崇敬を受け、神社の領地二十二石が認められていました。現在の社殿は、本多俊次が藩主の時代、万治四年(1661)に造営したものです。表門である高麗門はかつての膳所城の北大手の城門であったことが、発見された棟札から判明しました。この門は重要文化財に指定されています。

御祭神は仁徳天皇です。社伝によりますと和田神社と同じく白鳳四年の創建といわれ、天智天皇が宇佐八幡の神のお告げより、この地に行幸した時、紫の雲がたなびき、金色の鳩が飛来し、この近くの森の大木に止まりました。天皇は、それを、めでたいことの前兆として現れる不思議なこととして、神社の造営を決められ、仁徳天皇の木像を下賜されたことが、この神社の始まりだといわれています。
この神社は、延喜十七年(917)落雷のため憂き目を見ますが、再建後の平安時代末期、寿永三年(1184)、木曽義仲の粟津の合戦で焼失ののち、源頼朝により再興されました。江戸時代は、他の膳所の神社同様、藩主本多家に庇護されました。やはりこの表門も膳所城の城門を移築したものです。

御祭神は、タカオカミノカミ。本殿は、鎌倉時代の建築で重要文化財に指定されています。社伝によりますと、創建は白鳳時代といわれ、現在の社名のいわれは、この地の湖岸が和田浜と呼ばれていたことによリます。境内にある高さ約24m、樹齢600から650年と言われる銀杏の木は大津市指定の天然記念物です。関ヶ原の合戦で敗れ、捕らえられた石田三成が、京都へ護送される途中、この銀杏の木につながれたという伝説が残っています。
また、和田神社の表門は、江戸時代、文化五年(1808)に創建された膳所藩の藩校である遵義堂(じゅんぎどう)の門を移築したものです。