戦国の大津歴史舞台
戦国の大津歴史舞台

瀬田・石山/軍事・交通の要衝 瀬田・石山/

/ /

琵琶湖から流れ出る唯一の川・瀬田川に架かる瀬田唐橋。「急がば回れ」の語源となった橋で、日本三名橋の一つに数えられる。

今は多くの橋が架かる瀬田川だが、戦国時代はこの瀬田唐橋のみだったため、東から京都を目指す軍勢にとっても、それを阻止する者にとっても重要な拠点であり、軍事上の要衝の地となっていた。

戦国時代には軍事の主要路となった瀬田唐橋 戦国時代には軍事の主要路となった瀬田唐橋。
「唐橋を制する者は天下を制す」とも言われた。
瀬田城跡の石碑 瀬田城跡の石碑。
瀬田唐橋の東側高層マンション下の県道前にひっそりと立つ。

その橋の東畔にあったのが瀬田城で、城もまた橋同様に重要な位置を占めていた。

永享年間(1429~41)の山岡資広から始まり、瀬田城主は代々山岡氏が引き継ぐことになるが、中でも著名なのは七代目城主に当たる山岡景隆である。

景隆は織田信長からの信頼が厚く、上洛のたびに瀬田城を宿所としたことなどが記録に残っている。

そんな景隆の名を知らしめたのは、明智光秀と瀬田唐橋で繰り広げた攻防戦。

天正十年(1582)、本能寺の変で信長を討った光秀は、安土城を占拠するべく瀬田橋に軍を進めた。そのとき、なんと景隆は架橋を任されていた瀬田唐橋を焼き落とし、光秀の行く手を阻んだのだ。

この行動にさすがの光秀も圧倒され、いったん兵を引かざるをえなくなったという。忠義を守り人情に厚い景隆の人柄がよくわかるエピソードである。

その後、景隆は信長の次男である織田信雄らに属して北伊勢攻めに参陣するも、賤ヶ岳の合戦で秀吉の敵である柴田勝家に内通していたことを理由に、瀬田城を追われることとなった。

瀬田城主は浅野長吉(長政)が務めるも、在城期間は短く、同年中には坂本城へと移った。

  • 瀬田唐橋/

    瀬田唐橋

    近江八景「瀬田のタ照」(せたのせきしょう)の主題である「瀬田唐橋」は、別名「瀬田橋」や「長橋」とも呼ばれ「唐橋を制するものは天下を制する」と言われ、古来より京都ののど元を握る交通·軍事の要街として重視され、瀬田橋が戦の歴史舞台になって千八百年になりますが、特に有名なものは、古くは、大津京が幻の都となった大友皇子と大海人皇子(おおあまのおうじ)の『壬申(じんしん)の乱』をはじめ、『寿永の乱」、「承久の乱」、「建武の乱」など效多の戦乱の舞台ともなりました。

    織田信長の瀬田橋の架け替えは、比叡山焼き討ちの4年後、天正三年(1575)に諸国の道路修理を命じ関税を免除するとともに、瀬田城主、山岡景隆と木村次郎左工右衛門を奉行に任命し、近江の朽木などから木材を調達し、長さ百八十間(約350m)、幅四間(約7m)のー本橋をわずか3ヶ月という突貫工事で架け替えさせたといわれています。

    名称
    瀬田唐橋(セタカラハシ)
    所在地
    〒520-2134 
    滋賀県大津市瀬田1丁目27
    アクセス
    JR琵琶湖線石山駅から徒歩10分、京阪電車唐橋前駅から徒歩3分
    URL
    https://otsu.or.jp/thingstodo/spot62
  • 瀬田城跡碑/

    瀬田城跡碑

    瀬田城は永享年間(1429~1441)に山岡資広(すけひろ)が城主となってから八代目の山岡景隆(かげたか)は、瀬田城最後の城主でした。景隆は、室町幕府の将軍足利氏に仕えていました。

    六角氏の有力家臣でもありましたが、永禄十一年(1568)六角氏の安土の観音寺城の落城で織田信長に付きました。また、天正三年(1575)には信長の命により、瀬田橋架橋の任につきました。

    天正十年(1582)6月、明智光秀は京都本能寺に信長を討ち、安土城を受け取るため近江に入りましたが、途中、景隆はその行く手をさえぎるべく、瀬田橋を焼き落としました。

    光秀は使者をつかわして、自軍への勧誘をはかりましたが、景隆は、追い返しました。

    そののち、信長の次男の信雄(のぶかつ)·羽柴秀吉とともに北伊勢攻めに参陣しましたが、賤ヶ岳の合戦の際、敵方の柴田勝家に内通していたことがわかり、瀬田城を追われました。

    名称
    瀬田城跡碑(セタジョウセキヒ)
    所在地
    〒520-2134 
    滋賀県大津市瀬田2丁目13
    アクセス
    京阪電車松ノ馬場駅から徒歩20分
  • 建部大社/

    建部大社

    近江一之宮「建部大社」は、景行天皇四十六年日本武尊(やまとたけるのみこと)の妃、布多遅比売命(ふたじひめのみこと)が、近江神崎郡建部郷に日本武尊の神霊を祀ったのがはじまりといわれ、そののち、天武天皇白鳳四年4月に日本武尊の子孫、建部公安磨(たけべのきみやすまろ)が国司の命により、近江国府がおかれていた瀬田の地の大野山に社殿を造営しました。

    さらに天平勝宝七年(755)には山麓の神領に移り、近江ー之宮といわれるようになり、貞応二年に現在の地に移りましたが、その時、拝殿前の三本杉は、一夜のうちに生えたといわれ、ここの神紋になっています。

    瀬田唐橋同様、ここも交通の要所となっているところなので兵火にもあっています。江戸時代には、膳所藩から二十石の領地が保障され、境内は東西六十四間(約116m)、南北三十四間(約61m)で、宮山四町が年貢免除の特権を与えられた除地となっていました。

    名称
    建部大社(タケベタイシャ)
    所在地
    〒520-2132 
    滋賀県大津市神領1-16-1
    アクセス
    JR琵琶湖線石山駅から徒歩20分、
    京阪電車唐橋前駅から徒歩15分
    URL
    https://takebetaisha.jp/
  • 石山寺/

    石山寺

    西国三十三所観音霊場の第13番札所。紫式部が源氏物語の構想を得たところとして名が知られています。

    聖武天皇が東大寺大仏を造立するため黄金を良弁僧正に探させたことが機縁となって天平時代に創建されたと伝えられ、観音信仰による石山詣と、学問と源氏物語の寺として、奈良時代·平安時代以来の長い歴史を持ち、広大な寺域と多くの堂塔伽藍を誇る近江有数の寺院です。

    戦国時代の天正元年(1573)、足利氏最後の将軍義昭が石山寺に陣を構えて、織田信長と戦って敗れ、寺領五千石を失い、兵火によって損害も受けますが、県下最古の本堂、源頼朝ゆかりの多宝塔、東大門、鐘楼など主要な伽藍は災厄を免れました。

    豊臣秀吉の時代になって、寺領の回復が行われ、淀殿の寄進による伽藍の再興がありました。淀殿は近江国小谷城主浅井長政の娘で、数奇な生涯を辿りましたが、最後に秀吉の側室となり、慶長七年(1602)石山の堂塔伽藍再興を企て、多くの建造物·仏像などの再興·修理を行いました。現在の石山寺の姿はこの時に出来上がったものが基礎になっています。

    江戸時代以来、皇室·徳川将軍家等の庇護を受けつつ、信仰と学問の寺として大きな存在を保って現代に至っています。四季折々の境内の美しさも見逃せません。

    名称
    石山寺(イシヤマデラ)
    所在地
    〒520-0861 
    滋賀県大津市石山寺1丁目1-1
    アクセス
    JR琵琶湖線石山駅からバス20分、
    京阪電車石山寺駅から徒歩10分
    URL
    https://www.ishiyamadera.or.jp/
Copyright © Biwako Otsu Tourism Association. All right reserved.
エリア関連
スポット一覧へ