戦国の大津歴史舞台
戦国の大津歴史舞台

比叡山/織田信長の比叡山焼き討ち/

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宇佐山城は、近江神宮の西方にそびえる宇佐山(標高336m)の山頂に築かれた山城である。

古記録によると、宇佐山城は元亀元年(1570)三月頃、織田信長の家臣・森可成によって築城を開始したことが分かる。

信長はこの年の四月、敦賀金崎城の朝倉義景軍を攻めるため、湖西を縦貫する北国海道に軍を進めた。

おそらく宇佐山城には、湖西方面の前線基地的な役割が担わされていたのだろう。

宇佐山の険しい山道に残された城の石垣 宇佐山の険しい山道に残された城の石垣
聖衆来迎寺にある宇佐山城主・森可成の墓。 聖衆来迎寺にある宇佐山城主・森可成の墓。

結局このとき、妹・お市の方を嫁がせて同盟関係にあった湖北の浅井長政の寝返りによって信長軍は京都へ退却するが、以後字佐山城は湖西方面での戦いに重要な役割を演じることになる。

信長は五月にいったん岐阜城に戻るが、翌六月にはふたたび近江に軍を進め、姉川で浅井・朝倉連合軍と刃を交えた。

時あたかも、摂津方面で三好三人衆が反信長の兵を起こしたため、信長は反転して摂津に向かう。

その間隙をつき、同年九月、連合軍は湖西平野になだれ込んできた。

「志賀の陣」のはじまりである。軍勢が北国海道を南下、坂本方面に差し掛かった時、宇佐山城主・森可成は、果敢に打ってでた。

連合軍三万に対し、可成軍はわずか六百とも一千とも言われるが、いずれにせよ劣勢であることは誰の目にも明らかであった。

可成は、かつて主君・信長から授かった「天下一の勇士なり」と墨書された旗をかざし戦いにのぞんだが、さすがの勇士・可成も奮戦むなしく、壮烈な討死をとげたのである。

戦後、聖衆来迎寺(比叡辻)の真雄上人は、夜陰にまぎれて可成の遺骸を同寺に運び、手厚く葬った。

今も境内には、五輪塔の墓が残されている。

宇佐山の山上には、今も本丸、二の丸などの人工的な平坦面と、その周囲に、高く積まれた石垣が残されている。

登ることは可能だが、足元に注意し、マナーを守って見学していただきたい。

元亀元年(1570)、浅井・朝倉連合軍が湖西路を南下したことをきっかけに、山門が反信長の意思を明確にした。

この危機的状況を回避するため、信長は朝廷の仲介を得て、浅井・朝倉連合軍と一時的に和睦したが、山門との和睦には至らなかった。このことを受け、元亀二年(1571)九月に山門焼き討ちを決行した。

麓の坂本から日吉大社、続いて三塔に散在した諸堂を焼き討ち、三千人以上の僧や村人が犠牲になったと伝えられる。

山門(延暦寺)、そして坂本の町が火の海と化した元亀二年(1571)の山門焼き討ち。

荒廃した山門の復興が始まったのは天正十年(1582)だった。

最初に再興に着手したのは、焼き討ちから生き残った施薬院全宗(せやくいんぜんそう)、観音寺詮舜(かんのんじせんしゅん)ら三十一人の僧である。

彼らは再興への趣旨を綴った『比叡山再興勧進帳」を作り、各地から寄付を募った。

比叡山延暦寺 釈迦堂 比叡山延暦寺 釈迦堂

また、羽柴(豊臣)秀吉へ再興の許可を依頼、その努力が報われ、天正十二年(1584)には鬼門守護や国家鎮護のための寺院として再興の許可が下り、さらには銭一万貫が経費として寄付された。

山門も勧進を行い、徳川家康、伊達政宗らの協力も加わり、東塔の根本中堂から再建が始まった。

また、文禄四年(1595)には三井寺(園城寺)の弥勒堂が西塔の釈迦堂として移築され、慶長九年(1604)には豊臣秀頼の母・淀君の発願により、横川中堂の改築も行われた。

山門と同じく社殿が全て焼失した日吉大社についても、信長が没した天正十年(1582)に再興の勅許が下り、再興が始まった。

天正十四年(1586)に大宮(西本宮)が完成されると動きが活発化し、二宮、十禅師、聖真子、客人、三宮、八王子の山王七社についても山門の協力を得て順次完成した。

慈眼大師天海の廟所 慈眼堂 慈眼大師天海の廟所 慈眼堂

この後、忘れてはならないのは、徳川家康のブレーンとして江戸幕府に深く関与した慈眼大師こと天海である。

天海もまた山門の復興に大きく尽力した一人であり、家康・秀忠・家光と徳川三代の将軍の強い倍任を得ていた。

寛永八年(1631)に再建された根本中堂が暴風雨で倒壊したときに、家光に再建を進言したのも天海だ。

家光は約八年の歳月をかけて、寛永十九年(1642)にほかの堂塔を圧倒する豪壮な根本中堂を完成させた。

  • 比叡山延暦寺/

    比叡山延暦寺

    千二百年前、最澄は比叡山に登り、草案を結び「一乗止観院」と名付け、自作の薬師如来を安置しました。

    延暦七年(788)には、法華十講を開き、日本仏教の母なる山としてその歴史は始まりました。

    平成六年に、その歴史と有する文化財、それを育む環境などが世界文化遺産に登録されたところでもあります。

    さて、その延暦寺の歴史の中での一大事件はやはり長の比叡山焼き討ちです。

    長は以前から、比叡山を味方にしたかったのですが、朝倉氏と親交が深かったことと、天下統一の野望を阻止しようとする浅井・朝倉両氏が比叡山に避難していたことから、二年(1571)9月12日、山麓の坂本から、長の三万の兵が、山王二十一社、西教寺、八王子山、そして比叡山の四千五百もの堂塔伽藍を焼き払い、僧侶、学僧、子供は見つけ次第首を刎(は)ね、ことごとく殺戮を続け、その犠牲者三千から四千人にものぼったと伝わります。

    荒廃した比叡山の復興が始まったのは天正十年(1582)で、焼き討ちを免れた、施薬院全宗(やくいんぜんそう)と観音寺詮舜(かんのんじせんしゅん)ら31人の僧たちでした。

    彼らは『比叡山再興勧進帳』を作り、各地から寄付を募り、羽柴秀吉に再興の許可を依頼した結果、天正十二年には京の都の鬼門守護と国家鎮護のための寺院として典の許可が下り、銭一万が寄付されました。

    徳川家康や伊達政宗も復興の協力に加わり、根本中堂から建が始まり、文禄四年(1595)豊臣秀吉は、弟の秀次が三井寺と通じているという理由で突然、三井寺の廃絶を命じ、三井寺の堂字を復興名目で移築したと言われています。

    現在の西塔の釈迦堂は、その時の三井寺の総本堂である金堂でした。

    名称
    比叡山延暦寺 (ヒエイザンエンリャクジ)
    所在地
    〒520-0116 
    滋賀県大津市坂本本町4220
    アクセス
    京阪電車坂本比叡山口駅から徒歩20分
    坂本ケーブル乗換徒歩10分
    URL
    https://www.hieizan.or.jp/
  • 宇佐山城跡/

    宇佐山城跡

    宇佐山城は、元亀元年(1570)織田信長の家臣の森三左右衛門可成(もりさんざえもんよしなり)が近江国志賀の地に築いて守護した山城です。

    可成は、京都と大津を結ぶ二大幹線である「今道越」と「逢坂越」を封鎖してその間に宇佐山城を築き、城の麓に直結する新しい道を開いてそこを旅人に往来させたのでした。

    元亀元年4月、織田信長は三万の兵を率いて、越前の朝倉義景を攻めましたが、同盟者であったはずの浅井長政の離反によって失敗しました。

    信長は京都へ退却したのち、居城であった岐阜へ帰って体勢を立て直すこととしました。

    そこで、5月には、宇佐山城には森可成、野洲の永原城には佐久間信盛、近江八幡の長光寺城には柴田勝家、安土城には中川清秀と近江南部の要所には名だたる部将を配して、浅井・朝倉軍の南下に対する守りを固めたうえ、岐阜へ帰りました。

    そして1ヶ月のち、浅井長政の居城である小谷城に近い姉川で、浅井・朝倉連合軍を破り大きな打撃をあたえましたが、北上する余裕はなかったようです。

    そうしているうち、7月には阿波から三好三人衆が摂津に侵攻してきて、不穏な形成となったので、信長は8月に摂津に出陣しましたが、浅井・朝倉の大軍は、その隙をついて琵琶湖の西側を南下し坂本まで侵攻してきました。

    9月16日、坂本に陣取った浅井・朝倉連合軍に対して可成は、その南下を阻むため、宇佐山城を降りて、坂本の町外れで戦いました。

    手勢わすが六百余り、三万の大軍の前ではひとたまりもありませんでした。

    9月20日、可成はついに討ち死にを遂げました。

    合戦のあったといわれる比叡辻の聖衆来迎寺(しょうじゅらいこうじ)の真雄上人は、可成の遺骸を夜陰に紛れて寺に運び入れ手厚く葬ったといわれ、寺には今も可成の墓が残っています。

    名称
    宇佐山城跡 (ウサヤマジョウアト)
    所在地
    〒520-0018 
    滋賀県大津市南滋賀町
    アクセス
    京阪近江神宮駅から徒歩10分
  • 聖衆来迎寺/

    聖衆来迎寺

    聖衆来迎寺(しょうじゅらいこうじ)は、天台宗中本山で、伝教大師最澄の創建と伝わっています。

    延暦九年(790)、最澄が自ら刻んだ地蔵菩薩を本尊として地蔵教院を建立し衆生済度の寺としたことがはじまりです。

    そののち、長保三年(1001)比叡山の恵心僧都源信がこの寺に入り、念仏の道場としました。

    あるとき紫の雲の中に、阿弥陀如来の来迎を感得して、自ら筆を揮ってその様子を描き、御本尊としたので「紫雲山聖衆来迎寺」と改めたと伝わっています。

    戦国時代、元亀元年(1570)9月、先の姉川の戦いで信長に敗れた浅井長政は、越前の朝倉義景と組んで京に上る途中、織田方に阻止されこの付近で戦いました。坂本の合戦です。

    この時、織田軍の大将が宇佐山城城主、森蘭丸の父、森可成(よしなり)で、浅井・朝倉軍は三万の兵、森軍は三千の兵で、勝利は目に見えたものでありました。

    そのとき比叡山も浅井・朝倉軍に加わったといわれ、これが信長の比叡山焼き討ちの一因になったとも言われています。

    この時48歳で戦死した宇佐山城城主、森可成をこの寺の住職であった真雄上人(しんゆうしょうにん)は浅井方ではありましたが、可成の死を悼んでここで葬ったといわれています。

    翌元亀二年、信長は三万の兵をもって、坂本の町家から日吉山王二十一社をはじめ、比叡山上までの堂塔伽藍をことごとく焼き払い、三千から四千人の僧や町人を殺戮しましたが、可成を弔ったこの寺だけは焼き討ちを免れたと伝えられています。

    境内には、その森可成の墓が今も残っています。

    名称
    聖衆来迎寺(ショウジュライコウジ)
    所在地
    〒520-0104 
    滋賀県大津市比叡辻2丁目4-17
    アクセス
    JR比叡山坂本駅から徒歩15分
    URL
    https://otsu.or.jp/thingstodo/spot169
  • 生源寺/

    生源寺

    生源寺は、比叡山延暦寺を開いた伝教大師が生まれたところで、のちに寺が建てられ、生源寺と名付けられました。

    伝教大師は、神護慶雲元年(767)8月18日、父、三津首百枝(みつのおびとももえ)と母、藤原藤子妃のもとに誕生されました。

    その時の産湯を汲まれたのが、生源寺の井戸であるといわれています。山門を入ると右手に「伝教大師御産湯井」の石碑があります。また、ここは延暦寺の西塔の総里坊格のお寺でもありました。

    元亀二年(1571)の9月12日の早朝、信長の三万の軍勢が押し寄せるのを、日吉大社の朝参りの帰りに発見した老人が、坂本の人々に急を告げるため、生源寺の釣鐘を力の限り乱打し、異変を伝えました。

    あまりに強く打ち鳴らしたため、ひびが入り不思議な音色になったといわれます。

    現在この破鐘は、JR湖西線 比叡山坂本駅前の広場に移されています。

    名称
    生源寺(ショウゲンジ)
    所在地
    〒520-0113 
    大津市坂本6-1-17
    アクセス
    JR比叡山坂本駅から徒歩20分または、京阪坂本比叡山口駅から徒歩すぐ
    URL
    https://otsu.or.jp/thingstodo/spot166
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