びわ湖大津 光秀大博覧会

光秀ゆかりのスポット

西教寺 ~明智一族の菩提寺~

正式には「天台真盛宗総本山 戒光山 兼法勝西教寺」と言います。
推古天皇二十六年(618)聖徳太子が高麗の恩師のため創建されたと伝わります。その後、久 しく荒廃していましたが、第十八代天台座主「慈恵大師良源」が復興し、念仏の道場としました。恵心僧都源信も修行され、文明十八年(1486)真盛上人が堂塔と教法を再興され不断念仏の道場とされ、現在は全国に約440の末寺を有する天台真盛宗の総本山となりました。 元亀二年(1571)、織田信長の比叡山焼き討ちでは、坂本の町家、日吉山王二十一社、山上の延暦寺堂塔一宇も残さず焼き払われ、僧侶や町人も老若男女区別なく約三千人が殺戮され、 西教寺もすべて焼き尽くされました。その後、坂本城の城主となった明智光秀は西教寺の不 断念仏の鉦の音を聞き自分の心のわだかまりをなくそうと、何かあるごとに参詣していたので、元亀三年(1572)から天正二年(1574)にかけて西教寺の壇信徒と協力して仮本堂の建立を始め、同年3月には落慶の運びとなりました。その時、宇佐山城の陣屋を移築して庫裏 も造営されましたが、その時、梁に使用されていた材木には「天正年中明智公所造古木」と 刻銘が入っていて、今も西教寺に残っています。そして、光秀からの寄進されたもので、梵鐘は坂本城の陣鐘で、平安時代の作で国の重要文化財に指定されています。そのほかに見どころとしては、総欅造りの本堂や伏見城の旧殿である客殿はいずれも国の重要文化財に指定 されています。本堂の前には、明智光秀とその一族の墓や光秀の妻煕子の墓がひっそりと佇んでいます。

〒520-0113 滋賀県大津市坂本5丁目13-1

JR湖西線比叡山坂本駅から江若バス5分、京阪電車坂本駅から徒歩25分

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坂本城址 ~光秀が初めて築城した幻の水城~

織田信長は、元亀二年(1571)9月12日、三万の兵をもって比叡山全山を焼き討ちしたのち、延暦寺の監視と山麓の滋賀郡一帯の支配を命じたのが、明智光秀です。その明智光秀が坂本城を築城しました。元禄三年(1690)の記録では、元亀二年のところに「明智 坂本に城をかまえ、延暦寺の領土を知行する。山上の木まで切り取る」と記されているので、築城は元亀二年のうちにはじまっていたことになります。
また、京都・吉田社の神官、吉田兼見(よしだかねみ)の日記『兼見日記』によると、元亀四年6月に坂本城に訪れた時は「天主の下に立つ小座敷」で光秀に会っているところから、このころには完成していたようです。
このお城の特徴は、まず、城内に琵琶湖の水を引き入れた、いわゆる「水城形式」の城郭でした。光秀の茶の湯の師匠である大阪堺の津田宗及(つだそうぎゅう)が坂本城に招かれ、茶会を催した時に「茶会のあと、城内から御座船に乗って安土城に向かった」と記しています。
次に、高層の大天主と小天主がそびえる豪壮なお城でした。当時、イエズス会の宣教師として来日していたルイス・フロイスは「明智の築いた城は、豪壮華麗で信長の安土城に次ぐ、城である」と言っていました。坂本城は安土城より4年早く着工されていましたので、近世の城郭の先駆的な存在でもありました。
光秀は、坂本城を拠点として信長の命により近江平定に奔走していましたが「本能寺の変」のあとこの城は10年で落城いたしました。

〒520-0105 滋賀県大津市下阪本3丁目1

京阪電車松ノ馬場駅から徒歩25 分

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宇佐山城趾

宇佐山城は、元亀元年(1570)織田信長の家臣の森三左右衛門可成(もりさんざえもんよしなり)が近江国志賀の地に築いて守護した山城です。可成は、京都と大津を結ぶ二大幹線である「今道越」と「逢坂越」を封鎖してその間に宇佐山城を築き、城の麓に直結する新しい道を開いてそこを旅人に往来させたのでした。
元亀元年4月、織田信長は三万の兵を率いて、越前の朝倉義景を攻めましたが、同盟者であったはずの浅井長政の離反によって失敗しました。信長は京都へ退却したのち、居城であった岐阜へ帰って体勢を立て直すこととしました。
そこで、5月には、宇佐山城には森可成、野洲の永原城には佐久間信盛、近江八幡の長光寺城には柴田勝家、安土城には中川清秀と近江南部の要所には名だたる部将を配して、浅井・朝倉軍の南下に対する守りを固めたうえ。岐阜へ帰りました。
そして1ヶ月のち、浅井長政の居城である小谷城に近い姉川で、浅井・朝倉連合軍を破り大きな打撃をあたえましたが、北上する余裕はなかったようです。そうしているうち、7月には阿波から三好三人衆が摂津に侵攻してきて、不穏な形成となったので、信長は8月に摂津に出陣しましたが、浅井・朝倉の大軍は、その隙をついて琵琶湖の西側を南下し坂本まで侵攻してきました。
9月16日、坂本に陣取った浅井・朝倉連合軍に対して可成は、その南下を阻むため、宇佐山城を降りて、坂本の町外れで戦いました。手勢わすが六百余り、三万の大軍の前ではひとたまりもありませんでした。9月20日、可成はついに討ち死にを遂げました。合戦のあったといわれる比叡辻の聖衆来迎寺(しょうじゅらいこうじ)の真雄上人は、可成の遺骸を夜陰に紛れて寺に運び入れ手厚く葬ったといわれ、寺には今も可成の墓が残っています。

〒520-0027 滋賀県大津市錦織

京阪電車近江神宮前駅から徒歩40分

比叡山延暦寺

千二百年前、最澄は比叡山に登り、草案を結び「一乗止観院」と名付け、自作の薬師如来を安置しました。延暦7年(788)には、法華十講を開き、日本仏教の母なる山としてその歴史は始まりました。平成六年に、その歴史と有する文化財、それを育む環境などが世界文化遺産に登録されたところでもあります。
さて、その延暦寺の歴史の中での一大事件はやはり信長の比叡山焼き討ちです。信長は以前から、比叡山を味方にしたかったのですが、朝倉氏と親交が深かったことと、天下統一の野望を阻止しようとする浅井・朝倉両氏が比叡山に避難していたことから、元亀二年(1571)9月12日、山麓の坂本から信長の三万の兵が、山王二十一社、西教寺、八王子山、そして比叡山の四千五百もの堂塔伽藍を焼き払い、僧侶、学僧、子供は見つけ次第首を刎(は)ね、ことごとく殺戮を続け、その犠牲者三千から四千人にものぼったと伝わります。
荒廃した比叡山の復興が始まったのは天正十年(1582)で、焼き討ちを免れた、施薬院全宗(やくいんぜんそう)と観音寺詮舜(かんのんじせんしゅん)ら31人の僧たちでした。
彼らは『比叡山再興勧進帳』を作り、各地から寄付を募り、羽柴秀吉に再興の許可を依頼した結果、天正十二年には京の都の鬼門守護と国家鎮護のための寺院として再興の許可が下り、銭一万貫が寄付されました。
徳川家康や伊達政宗も復興の協力に加わり、根本中堂から再建が始まり、文禄4年(1595)豊臣秀吉は、弟の秀次が三井寺と通じているという理由で突然、三井寺の廃絶を命じ、三井寺の堂宇を復興名目で移築したと言われています。現在の西塔の釈迦堂は、その時の三井寺の総本堂である金堂でした。

〒520-0113 滋賀県大津市坂本本町4220

京阪電車坂本駅から徒歩20 分坂本ケーブル乗換徒歩10 分

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日吉大社

比叡山の山麓、坂本に鎮座する日吉大社は、全国三千八百余の日枝、日吉神社の総本宮で、その歴史は古く、「古事記」上巻に『大山咋神( おおやまくいのかみ)、亦ノ名は山末之大主神( やますえのおおぬしのかみ)、此の神は、近淡海国(ちかつあわふみのくに)之日枝(ひえ)の山に坐し・・・』と記され、大山咋神は今も日吉大社の東本宮に祀られています。
また、天智天皇が大津宮を造営されるころ、大和の三輪の神が祀られるようになり、こちらは今も、西本宮に祀られています。そして、最澄により比叡山が開かれると、日吉大社は延暦寺の護法神、守護神と位置づけられました。
元亀二年(1571)の信長の焼き討ちでは、日吉大社もすべてが焼き尽くされましたが、その再興については、祝部行丸(はふりべゆきまる)という日吉社の神職が尽力し、全国を回り日吉社再建への運動を起こしていきました。天正三年(1575)、行丸は再建に着手し、比叡山の再興と同じくして天台の僧たちの尽力のもと江戸時代には再興がほぼ完了いたしました。 日吉大社の建造物は、その焼き討ちにより、跡形もなく焼失してしまい、いずれの建物も桃山時代から江戸時代にかけて再建されたものばかりですが、以前の姿を彷彿させる重厚な建造物群です。 主な社殿は重要文化財に指定され、特に西本宮と東本宮の本殿は「日吉造」とも呼ばれいずれも国宝に指定されています。 他に、境内にかかる3 つの石橋は重要文化財で、秀吉寄進と伝わる「日吉三橋」といわれ、西本宮までの参道には、山王鳥居という、独特の形をした鳥居があります。
少し離れて、坂本ケーブルの南側に建つ「日吉東照宮」は徳川家康を祀る社で、寛永十一年(1634)造営の典型的な権現造です。

〒520-0113 滋賀県大津市坂本5丁目1-1

JR 湖西線比叡山坂本駅から徒歩20分、京阪電車坂本駅から徒歩10分

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生源寺の破れ鐘

生源寺は、比叡山延暦寺を開いた伝教大師が生まれたところで、のちに寺が建てられ、生源寺と名付けられました。
伝教大師は、神護慶雲元年(767)8 月18 日、父、三津首百枝(みつのおびとももえ)と母、藤原藤子妃のもとに誕生されました。その時の産湯を汲まれたのが、生源寺の井戸であるといわれています。山門を入ると右手に「伝教大師御産湯井」の石碑があります。また、ここは延暦寺の西塔の総里坊格のお寺でもありました。
元亀二年(1571)の9 月12 日の早朝、信長の三万の軍勢が押し寄せるのを、日吉大社の朝参りの帰りに発見した老人が、坂本の人々に急を告げるため、生源寺の釣鐘を力の限り乱打し、異変を伝えました。あまりに強く打ち鳴らしたため、ひびが入り不思議な音色になったといわれます。
現在この破鐘は、JR湖西線 比叡山坂本駅前の広場に移されています。

〒520-0113 滋賀県大津市坂本6 丁目1-17

JR 湖西線比叡山坂本駅 駅前広場

聖衆来迎寺

聖衆来迎寺(しょうじゅらいこうじ)は、天台宗中本山で、伝教大師最澄の創建と伝わっています。延暦九年(790)、最澄が自ら刻んだ地蔵菩薩を本尊として地蔵教院を建立し衆生済度の寺としたことがはじまりです。
そののち、長保三年(1001)比叡山の恵心僧都源信がこの寺に入り、念仏の道場としました。あるとき紫の雲の中に、阿弥陀如来の来迎を感得して、自ら筆を揮ってその様子を描き、御本尊としたので「紫雲山聖衆来迎寺」と改めたと伝わっています。
戦国時代、元亀元年(1570)9 月、先の姉川の戦いで信長に敗れた浅井長政は、越前の朝倉義景と組んで京に上る途中、織田方に阻止されこの付近で戦いました。坂本の合戦です。
この時、織田軍の大将が宇佐山城城主、森蘭丸の父、森可成(よしなり)で、浅井・朝倉軍は三万の兵、森軍は三千の兵で、勝利は目に見えたものでありました。そのとき比叡山も浅井・朝倉軍に加わったといわれ、これが信長の比叡山焼き討ちの一因になったとも言われています。この時48 歳で戦死した宇佐山城城主、森可成をこの寺の住職であった真雄上人(しんゆうしょうにん)は浅井方ではあったが、可成の死を悼んでここで葬ったといわれています。
翌元亀二年、信長は三万の兵をもって、坂本の町家から日吉山王二十一社をはじめ、比叡山上までの堂塔伽藍をことごとく焼き払い、三千から四千人の僧や町人を殺戮しましたが、可成を弔ったこの寺だけは焼き討ちを免れたと伝えられています。境内には、その森可成の墓が今も残っています。

〒520-0104 滋賀県大津市比叡辻2丁目4-17

JR湖西線比叡山坂本駅から徒歩15分

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東南寺

延暦年間、最澄が両親への報恩と追善供養のため建立したお寺で、比叡山の南東の方角、戸津が浜にあったので、東南寺といわれていました。 最澄は、「近江国の西部の民衆に法華経を分かり易く説教するため」ここで、説法を始めました。これが東南寺説法とも言われる「戸津説法」のはじまりです。
現在も、毎年8 月21 日から25 日5 日間、延暦寺の高僧による「戸津説法」が引き継がれ、伝教大師最澄に代わって、延暦寺の高僧が民衆のためわかりやすく説教するもので、天台座主の登竜門とも言われています。
このお堂は、寛永十五年(1638)、高島市今津町にあった一堂をこの地に移したので、別名今津堂とも言われていた。境内には、正面に本堂があり、南側に鐘楼があり、琵琶湖岸にも近く、ここは坂本城の二の丸跡だったといわれています。

〒520-0105 滋賀県大津市下阪本3丁目6-14

京阪電車松ノ馬場駅から徒歩20分

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盛安寺

周囲の美しい穴太衆積みの石垣に囲まれ、一際目立つ太鼓櫓には、天正年間、敵の急襲を知らせた恩賞として、光秀から庄田八石を賜ったと伝わる「明智の陣太鼓」がかかっています。山門をくぐると境内には本堂、客殿、そして六体地蔵尊の横には明智光秀公の供養塔があります。
社伝によりますと、越前朝倉氏の家臣、杉若盛安(すぎわかもりやす)が天文年間(1532~1555)に再建したと言われています。坂本城主、明智光秀の祈願所となっていたこともあり、「明智寺」とも言われていました。
天正年間には、明智光秀はもちろん豊臣秀吉が相次いでこの寺に天下泰平、玉体安穏の祈念を行ったこともありましたが、元亀年間の兵火で焼失したと伝わっています。
現在は、坂本にある天台真盛宗総本山の西教寺の末寺のひとつとなっています。ここは、穴太(あのう)の里、高穴穂宮跡のあるとこで、天智天皇の勅願寺「崇福寺」(すうふくじ)伝来の、国の重要文化財に指定されている十一面観音菩薩が安置され、一般には5月、6月、10月の毎土曜日と正月三が日は特別公開があります。
また、重要文化財の客殿は桃山御殿の遺材と言われ、内部の襖や壁には長谷川派の作とされる四季の草花や鳥、上座の間には漢の文帝「露台惜費」(ろだいせきひ)の故事が鮮やかに描かれています。

〒520-0113 滋賀県大津市坂本1 丁目17-1

京阪電車穴太駅から徒歩10分

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穴太衆積みの石垣・坂本の街並み

大津市・坂本は比叡山の東麓、琵琶湖の南西岸に位置するまち。今はおだやかな佇まいを見せるばかりですが、 数奇な歴史物語を刻んできたまちでもあります。
坂本は、比叡山麓の豊かな自然とびわ湖畔の美しい景観に恵まれた門前町の名勝地として多くの遊覧客で賑わいました。 今も神秘的な癒しの聖地として人気です。

〒520-0113 滋賀県大津市坂本6-1-13

JR大阪駅【近江塩津・敦賀方面行(湖西線経由)に乗車の場合】→京都駅→比叡山坂本駅
JR大阪駅【草津・米原行に乗車の場合】→京都駅【湖西線に乗換】→比叡山坂本駅
京阪電車 京阪淀屋橋駅→三条駅【京津線に乗換】→びわ湖浜大津駅 【石山坂本線に乗換】→坂本比叡山口駅

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堅田城

元亀四年二月、信長との不和が決定的となった室町幕府の将軍、足利義昭の檄により、石山・堅田両城で反信長の挙兵がなされました。信長軍は数日間で石山城を落とした後、二十九日には、堅田城へ向かいました。

「明智軍記」によると、二十九日の朝、明智光秀は城の北東の湖上沖合いに、周囲を楯でおおった「囲船」を並べ、船中から大鉄砲30余挺によって、城中に一斉に撃ちかけた後、船を湖岸につけて攻め入り、落城させました。
また、明智光秀は同年五月に、この合戦で戦死した18名の部下の菩提を弔うため、西教寺へ供養米を寄進しています。
なお、現在は、城に関連する地名が残されている程度で、正確な所在地については特定されておらず、城の遺構等もみつかっていません。

〒520-0241 滋賀県大津市今堅田1丁目5-29

JR湖西線堅田駅より徒歩20分

瀬田の唐橋・瀬田城

瀬田川東側に軍事上の目的で築城された城。瀬田川は琵琶湖から流れ出る唯一の川であり、瀬田川に架かる瀬田橋は「急がば回れ」の語源ともなった橋で、戦国時代は交通・軍事上の重要戦略拠点であった。その瀬田橋のたもとにあった瀬田城も重要な位置を占めていた。
永享年間(1429〜1441年)の山岡資広(すけひろ)から始まり代々山岡氏が城主で、織田信長政権下の山岡景隆は、瀬田橋を守る城主として活躍、織田信長からの信頼が厚く織田信長は上洛のたびに瀬田城を宿所としていた。
天正10年(1582年)本能寺の変で織田信長を討った明智光秀は、安土城を占拠するため瀬田橋に軍を進めた。架橋を任されていた山岡景隆は織田信長への忠義を守り瀬田橋を焼き落とし明智光秀の軍を阻んだ。これにより明智光秀はいったん兵を引かざるを得なくなり、天下の趨勢に大きな影響を与えた。
今は、瀬田唐橋の東側高層マンションの下の県道前にひっそりと城跡石碑が立っている。

〒520-2134 滋賀県大津市瀬田2丁目13

京阪電鉄 石山坂本線 「唐橋前駅」下車 徒歩5分

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明智左馬之助湖水渡りの碑・駒止めの松・唐崎神社

比叡山の山麓、坂本に鎮座する日吉大社は、全国三千八百余の日枝、日吉神社の総本宮で、天正十年(1582)6 月2 日、明智光秀は、織田信長を京都本能寺に討ちましたが、13日、山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れ、逃げる途中、京都山科の小栗栖の藪で、土民に囲まれ、敢え無い最期を遂げたと言われています。
その深夜、光秀の悲報を受けとった光秀の娘婿、明智秀満は占拠していた安土城から、翌日早朝、坂本城へ陸路で出陣しました。秀満は、途中瀬田唐橋を守る織田方の武将山岡氏に進路を阻まれますが、それを振り切って、大津へ向かいました。
大津を守っていたのは、秀吉軍の先鋒、勇猛でならす堀秀政でした。その軍に真っ向から対決を挑んだ秀満軍は、多くの手勢を失い、窮地にたたされましたが、秀満は、なんとも大胆に打出浜から馬を琵琶湖に乗り入れました。これが後世に名をはせる「明智左馬之介の湖水渡り」です。
そして、なんとか唐崎に上陸した秀満は、めでたく坂本城にたどり着きましたが、堀秀政の軍は6 月15 日、坂本城を攻めて、激戦のすえ、あの秀麗な天主のあった坂本城は落城しました。秀満は、自分の妻を刺し殺し、腹を十字にかっさばいて、火薬に火を付け、天主もろとも吹っ飛んでいきました。
その壮絶な最期も、江戸時代初期の『川角太閤記』に劇的に書かれています。

〒520-0806 滋賀県大津市打出浜15-15

京阪電車島の関駅または石場駅から徒歩5分

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明智塚

東南寺の北東約250m、国道161 号の西側に村田製材所の事務所横に木造の鳥居と2つの石灯籠を有する小さな塚が明智塚です。
ここは、古い小字名を「城」といいました。明智光秀が築いた坂本城の城内と推定されるところです。
この塚の由来については、いろいろな伝承が残っています。たとえば、光秀が坂本城築城に際して、本家の美濃守護土岐氏から伝領した宝刀を城の主柱の下に埋めた跡である、とか、光秀秘蔵の愛刀「郷義弘」(ごうのよしひろ)の脇差を落城に際して娘婿の左馬之介秀満が埋めたところである、とか、また、左馬之介秀満の首を埋めたもの、とか、明智一族の墓所であるとか、いろいろな節がいわれています。
光秀は、「本能寺の変」で信長・信忠親子を討ちましたが、13 日には「山崎の合戦」で羽柴秀吉に敗れ、坂本へ逃げる途中、京都の小栗栖で土民に殺されたといわれています。
それを知った光秀の娘婿、明智左馬之介秀満は安土城から坂本城に入りましたが、すでに秀吉軍は大津を押さえ、坂本城を完全に包囲しました。秀満は、光秀の妻や娘と自らの妻を手にかけ、天主に運び込んだ火薬に火を付け、絶賛を浴びた坂本城と運命をともにしました。
この塚は明智一族の悲運もあってか、さわるとたたりがあると言われ、壊されることもなく現在に至っています。毎年、光秀の命日の翌日、坂本城落日の6 月15 日に、所有されている方の手でねんごろな法要が行われています。

〒520-0105 滋賀県大津市下阪本3 丁目6-14

京阪電車松ノ馬場駅から徒歩20分

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